松本零士(85)、先週亡くなっていた!

松本零士(85)、先週亡くなっていた!

ワタシは戦艦大和や武蔵を知る前に、宇宙戦艦ヤマトからだった。幼年期長崎にいて、学生は福岡で過ごしたからか、呉で造られた大和より長崎で造られた武蔵の印象の方が強かった。(修学旅行で長崎に行ったし。)

小学校時代、プラモデルでスーパーカーの後は宇宙戦艦ヤマトだった。当時はプラモデルはクルマの1/24は500円くらい、ヤマトのポケットサイズなどは100円くらいだった。ちょっと後、1/144ガンダムは300円だった。テレビアニメ「ヤマト2」や映画「さらば宇宙戦艦ヤマト」の超巨大戦艦だけ700円出した。

宇宙戦艦ヤマト、映画版は松本零士、テレビ版は西崎義展がやってたイメージ。映画はワタシが高2の時のファイナルヤマトで、アクエリアスで自爆し終わった。西崎派のヤマトは、テレビやったり別で映画やったり、キムタクら実写版も、テレビ版リメイクもやった。西崎義展は小笠原でダイビング中に亡くなったハズだが、その後も西崎派では石森の仮面ライダー&超人戦隊や円谷のウルトラマンよろしく、アレコレと商業ヤマトをリリースした。芸術家と商売人の対照的な展開に見えた。

 

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宇宙戦艦ヤマト」「銀河鉄道999松本零士さん死去、85歳 急性心不全
2/20(月) 11:11 Yahoo!ニュース
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2020年1月21日公式Twitter用に松本零士さんは愛猫の四代目ミ-くんと共に撮影(提供写真)
 「宇宙戦艦ヤマト」「銀河鉄道999」などの作品で知られる漫画家の松本零士(まつもと・れいじ)さん(本名・晟=あきら)が2月13日午前11時0分、急性心不全のため、都内の病院で亡くなった。85歳だった。20日東映が発表した。告別式は近親者のみですでに執り行っており、喪主は妻で漫画家の牧美也子さんが務めた。

【写真】2009年12月、自身がデザインした「忍者列車」にサインをする松本零士さん

 所属する零時社の代表取締役で、長女の松本摩紀子氏もコメントを発表。「漫画家松本零士が、星の海に旅立ちました。漫画家として物語を描き続けることに思いを馳(は)せ駆け抜けた、幸せな人生だったと思います。『遠く時の輪の接する処で、また巡り会える』と松本は常々申しておりました。私たちもその言葉を信じ、その日を楽しみにしています。これまで応援くださいましたファンの皆さま、作品を世に送り出してくださいました関係各社の皆さま、お世話になりました各自治体ならびに各団体の皆さま、若かりし頃から共に切磋琢磨(せっさたくま)してくださった漫画家の先生方、そして旅立ちにあたりサポートしてくださいました病院の皆さま、心より深く感謝申し上げます。本当にありがとうございました」とつづった。

 松本さんは、1938年(昭13)1月25日生まれで、福岡県久留米市出身。6歳の頃から絵を描き始め、9歳で運命的な本(「新寶島」「月世界紳士」いずれも著者は手塚治虫氏)との出会いをきっかけに漫画を描き始め、15歳の時に投稿作「蜜蜂の冒険」が「漫画少年」で受賞掲載され、商業誌デビュー。実質的な漫画家デビューは1957年「少女」掲載の「黒い花びら」で、しばらくは少女漫画誌での執筆が続いた。

 1968年に青年漫画誌が誕生し始めたころ、「漫画ゴラク」に「セクサロイド」を発表。以降、青年漫画誌での執筆が増え、少年・青年漫画のジャンルで活躍し、「男おいどん」「ガンフロンティア」「宇宙戦艦ヤマト」「クイーンエメラルダス」「ザ・コックピットシリーズ」「宇宙海賊キャプテンハーロック」「銀河鉄道999」「新竹取物語1000年女王」など数々のヒット作を生み出した。

 19年11月、「宇宙海賊キャプテンハーロック」が、イタリアでのテレビ放送40周年を迎えて訪れたイタリア・トリノで倒れたこともあったが、帰国後は回復。東映によると、最近体調を崩し、年齢を考慮して入院していたという。

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